感情的、否 感情を想起させるためにどう頭を使うか

日常

昨日は釣りに出かけた。釣果はパッとしなかったが、往路での会話が個人的にすごく有益だったのでなんとなく残しておきたい。

最近やっと血が通い始めたプリミティブな世界観の楽曲の話から、ポールサイモンがアフリカかどこかの音楽をフィーチャーしたアルバムを聞かせてもらった。

エグミのある繰り返しを基調とした伴奏と、そこに乗っかる飄々としたポールサイモンのボーカル。一見合わなそうな組み合わせだが、流石のポールサイモン、本当に絶妙なバランスで楽曲が出来上がっている。

いつも釣りに連れて行ってくれる先輩(以下T氏)もミュージシャンであり、話はそこから歌唱法の話になった。

個人的に自分の音楽の一番弱いところは歌唱力だと思っているので、こういう話はいつも興味深いし勉強になる。アコースティックギターで弾き語る形態はT氏も僕も同じなのだが、T氏はブルースをやっていてオリジナル曲、そして日本語の曲はやらない。対して僕は日本語で、オリジナルしかやらない。その立場の差異からいつもT氏はメカラウロコの発想の転換をくれる。(ちなみにT氏は歌もギターもむちゃくちゃ上手い)

話は歌の技術論になり、最近よくあるカラオケ歌うま王決定戦みたいなのって、たしかに歌は上手だけど、見ていてなんとも言えない、どちらかと言うと不快な感覚を覚えるのはどうしてだろう、そして「すごく感情こもってます!」みたいな身振り手振りや苦悶の表情の空寒々しさは何なのだろう、という話になる。

カラオケ的な上手さというのはアーティスト的と言うよりは無機質でアスリート的なものであり、本当は真顔でも歌えるのに、感情を込めている雰囲気を出すために、大袈裟なアクションや表現に則していない表情をしたりする。そこの乖離が気持ち悪いのではないか。そしてそれも意図的にやっているのではなく、多くの人は蔓延る常識を疑わずに良かれと思ってやっているのだろう。

そこには感情が込もっている歌こそが正義、という共通認識がある。果たして歌い手が感情的にパフォーマンスに臨むことの是非は?

T氏はおっしゃった。

人間というものは高い音や大きい音を聞いたとき自動的に、遺伝子レベルで何らかの感情を覚える。怒りだったり、恐怖だったり、危険だったり。そうなるとある程度の要件を満たしている楽曲だと、音符通りに再生するだけで様々な感情を想起させる機能がそもそも備わっているのではないか。メロディの高低、フォルテシモ、ピアノ。それを歌い手のある種独りよがりな感情が入ることで、そもそも楽曲が狙っていた感情の想起が乱されるのではないか。だから俺はむしろ感情をなるべく排除して、自分が良しとした歌い方をなるべく再現することに神経を使う。それをする上で、高い音を出す時の喉や、サディスティックなギターフレーズによって痛くなる指、そういった肉体的な苦痛により苦悶の表情になることは理解できる、と。

つまり、どう感情を込めるか、ではなく、聞いている人の感情を想起させるためにどう歌うか、に頭を使うということ。

そこで僕は、はたと気づいた。T氏は歌の設計図を持っているのが、僕は持っていない、もしくは意識が希薄だ。どちらかと言えば楽曲とは別で、歌の能力さえ上げれば全て解決する、的な考えだった。仮に歌が上手くなってもどう歌うか、を持っていないことは変わらない。もちろん歌の基本能力が高い上で設計図を持っているのが一番だが、僕は両方持っていない。「歌さえ上手くなれば万事上手くいく!」みたいな曖昧な妄想に近い願望しか持っていなかった。

歌の基礎練習や体力は大事なのだが、まず自分の楽曲を見つめ直す、歌詞カードに「ここはこう歌いたい、誰々の何々って曲のあそこみたいに」的な具体的な目標をどんどん書き込む。そういった作業をした方が良いのではないか。そしてそれを実現していくことが、また違う方向から歌の上達につながるのではないか。

カバーしかやらない、オリジナルしかやらない、その立場の差もあるのではないかとT氏はおっしゃった。そしてふと考えた。周りの知人の得意なことも、ただ単に創造的模倣をこなした量ではないか。

ある人はギターは上手いが曲は全然書けない、ある人は突出したアレンジ能力を持っているが歌のニュアンスは気にしていない、モノマネ上手なあの人は歌もすごく上手い。そして自分がそれをできているのは、圧倒的に歌詞だ。(人がどう思っているかは別にして)

聞いた音楽より読んだ本の方が圧倒的に多いし、好きな文章の定義がかなり細かく構築されている。いつも歌詞に自分しか気づきようのない比喩を何重にも忍ばせたりしてほくそ笑んでいる。良いか悪いかは置いておいて、歌詞を書くことは完全に能動的だし、神頼み的側面がない。そして悩みも少ないし満足感もある。歌うこともアプローチを変えてみよう、そう思った。

書いてみるとごく当たり前のことのようだが、人の苦手な分野ってだいだいこういう盲点由来なのかもしれない。何かのきっかけがないと簡単なことにも気付けないことが沢山ある。そして見えていなかったものに気づくことは大きなチャンスだ。伸び代だ。やれることはまだまだある。

殴り書きだが備忘録として。

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